シリーズ「愛犬の介護の記録」は、筆者のかつての愛犬ポピィについて書いた過去のブログの記事を再構成してこのサイトに転載したものです。
必要な人とワンちゃんのお役に立てれば幸いです。
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愛犬のために目指したこと
元気でいること、苦しまないこと
私の愛犬ポピィが「老い」と「病」に倒れて、私が最初に『愛犬の死』を覚悟したとき、同時に私はポピィを失うことを恐れなくなりました。そのかわり、私はポピィが苦しむことを恐れました。
「いつ逝ってくれても構わない。受け入れる準備はできた。だからどうか、苦しまないでほしい。」
腎不全は普通なら非常に苦しんで、じきに死に至るといいます。
私の愛犬ポピィは先生も驚くほどの生命力で、非常に重い腎不全の症状に耐えていました。しかし、どこかでそれに耐えかねて地獄の苦しみに変わる恐れも常に共に在りながら生きていました。
「病で死ぬほどの苦しみに飲まれるくらいなら、いっそ元気なときにポックリと逝ってしまったほうがどれほど良いだろう。」
無論、愛犬が死ぬことを望んでいたわけではありませんが、「苦しみよりは楽な死を」、そう考えていました。誰だって元気で幸せなときに楽に死にたい。いつか死ぬのは構わないが、最後まで笑っていたい。
実際のところ、愛犬ポピィは「寿命」と「病死」の狭間で生きていました。どっちに転んでも、もう一歩先には死が待っている。まさに人生の終盤の、そんなところでした。
「もしかすると、明日旅立ってしまうのかもしれない」、こんなことをいつも頭の隅に置いていました。
それでも、その日その時、私の目の前で確かに生きていた愛犬ポピィの姿に、私は願いました。「こうして生きている間は、どうかいつも元気でいてほしい。」と。
「どうか苦しまないでほしい」、同じようなことを繰り返し書きましたが、本当にそれを一番に願いました。「愛犬を苦しみから遠ざけるためなら何でもする」、そのくらいの気持ちで取り組んだ介護生活でした。
昔は「長生き」してくれることを望んでいました。しかし最初に病に倒れたときで14歳。最後は17歳。愛犬ポピィは十分に長生きしてくれました。
年老いた愛犬を前にして願っていたのは長生きではなく「苦しまずに逝ってくれること」でした。
いつも安心・快適でいられること
愛犬ポピィは、目が見えなくなってからは、見えないことへの恐怖が少なからずあり、私だけを信用するようになりました。私以外の人に何かをされる時、不安な様子を見せるようになりました。
いつも安心していてほしかったので、どんな不安も取り除いてあげようと思いました。
たとえば、こんなところにも解決すべき課題がありました。
ヨークシャーテリアは毛がどんどん伸びるので「散髪」が必要で、いつも動物病院でトリミングをしてもらっていました。
しかし目が見えなくなってからは、「目が見えないまま長時間拘束されて、複数の知らない人に体を触られる」というトリミングは大きな苦痛になると思いました。
そこで愛犬ポピィの毛を整えるために、慣れない手で私が散髪をするようになりました。伸びたところだけ、汚れやすいところだけ、というふうに、毎日少しずついろんなところの毛をカットしました。
結果、ポピィは自宅でごろごろしたままでいつも快適な状態を維持することができました。そこに不安やストレスはなく、私と一緒に家にいるという一番の安心を守り続けることができました。
このように、目の見えない愛犬には思いがけないところに「不安」や「ストレス」があり、それを少しの工夫で「安心」や「快適」に変えてあげることができるのです。
時には苦労もありますが、愛犬のためなら何でもできるものです。
余談ですが、私は愛犬ポピィの散髪を自分でやり続けた結果、トリミングが上手になってしまい、動物病院に行くとトリミング担当の人に「とても上手にできていますね」と感心されるようになったのでした。
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